flower-of-days

本のことなど

[ぐるりのこと。]追記

※前記事に引き続きネタバレです。


いいなあというものは、しばらく繰り返してしまう性質。しばらく考え込み、味わう。


で、考えると先ほどの記事だと、多江の回復の過程が良かったというふうに読めるかなと。

それも少し違う。多江の回復過程はもちろん良かったのだけど。


映画を途中まで見ていた時、木村多江はちっとも魅力がない、と思った。フランキーは良いのに、相手役にもっと他の人を配置すればいいのに…とすら思った。映画なら、まず登場人物の人となりで惹きつけて、それからじゃないと集中して見られないよ、って。

木村多江は、段々と鬱になっていく奥さんの役。衝撃的な出来事は起こらない。というか、敢えてそれを飛ばして描かれている。だから、ただ鬱々としている日常が続く。彼女が鬱々とする理由は、観る側にはうっすらとは分かるものの、強い納得性や共感性はない。

この人、どういう人なんだろう。なんだかすごく落ち込むなあ。

人が落ち込んでいる姿は、普通、魅力的ではない。魅力的ではない、うんざりするようなところを、この映画ではそのまま映している。


その場面が十分に描かれてから、ゆっくりとした回復が描かれた。だからこそ、多江の笑顔は花のように見えた。

映画が終わりかけのどこかで、はっと腑に落ちる。

あの多江と、この多江は同じ多江なんだということに。

みっともなく、自分を支えられず、夫をすら信じられず、見るのが疲れるような多江と、光を十分に浴びて微笑み力強い表情を見せる多江は、別人のよう。もがいて這い上がれないときが誰にもあるし、幸福に額が輝いているような日もある。どちらかが嘘ではなく、どちらも同じ人の分かちがたい両面だ。社会の苦しみを凝縮したような濁りも、社会の片隅でひそやかに紡がれている実直な生活も、分離することはできない、まるごとでしか本当には見つめられない。

人のどん底のとき、ただ隣にいることは、簡単ではない。フランキーが本当は逃げたかったのかわからないけど、すごいよね、フランキー。